感情をコントロールができる人が称賛され、感情に余裕のある人ができる人だと言われる時代。それは年齢のせいだ、性格のせいだ、ホルモンのせいだ、あなた自身が悪い!といろいろ原因追求され、レッテルを貼られ、自分自身もきっとそうなんだろうなと疑うことなく、自分を追い込む癖がついていると最近、感じている。そして、そんなに弱かったかなとも。
そんな時に23歳のちゃんみなさんの発言に、あ、そうかもしれないと思わされた。
「感情が動かない。あまり感動しなくなってしまった。歳のせいにされる方が多いが歳のせいだと思っていなくて、コロナ禍のせいじゃないかなと思っていて。絶望が大きくても、ちょっとの希望があることで、何かを言いたくなる、発したくなる、あがきたくなる、幸せを感じる。そのちょっとの希望が年々塞がっている。音楽やテレビ含め、言っていいこと、やったら駄目なことなど、身の回りの規制があまりにも年々厳しくなってしまっている。そこが感情にリンクしているのかと思っている。」
かといって、自分ではどうにもならない、できないから、きっと、なんとなく気づかないフリをして過ごしてしまうか、思い詰めてしまうのかもしれない。
同じ番組内で、マツコさんが「幸福とは?」っていわれたら、「他者を介在させずに、喜びを得ること」そして、「他人と比較しないモノを持つことが幸せ」とも話していた。
これは確かに、簡単に情報のシェアができる世の中になったからこそ、昔よりも比較対象が増え、aiで自分が気になる情報が目に入りやすくなり、優劣がつきやすくなってしまった。だから、世界は広くなっているようで、人によってはより狭くなり塞ぎこむ一因になっているのかもしれない。
この半年、いや、産休をあけてから、家庭や仕事において、いろいろありすぎた。他人を通して、自分と向き合うことも多すぎた。正直、もう、ダメかもしれないと思った時もあった。でも、最後は馬さんに救われた。まだまだ未熟な自分に使ってくれた時間に感謝した。
私の父は「薄っぺらな人間は、底を見られると逃げるしかないんだわ。コツコツと苦労を積み重ねた人間が強いってこと。学ぶ力は、生きる力です。」と。
馬さんとは出会ってから、こんなに二人で話したことはあっただろうかいうくらい、毎日、夜中までずっとたくさん話した。そして、最後にこれをと、夜中に書き溜めたらしい手紙をくれた。
今回改めて感じたのは、私は人が好きで、曲がった事が嫌いで、人の言動から、きっとこういうことだ!という予想はとことんはずす事だ。
馬さんのおばあちゃんが亡くなった。おばあちゃんは、私と馬さんが付きあっていた時からのお付き合いだ。当時、馬さんの実家へ遊びに行くと、必ず、あさちゃん、ちょっとと、おばあちゃんから声がかかり、帰るまでおばあちゃんの部屋で過ごすことが多かった。特にこれといった話をするわけじゃないのだけれども、決まって、私が好きなお寿司を一緒に買いに行ったり、おばあちゃんの茶箪笥にしまってある高級なお茶菓子をこっそり出してくれた。そして、リビングとおばあちゃんの和室の境目には、おこぼれ待ちなのか、ただ単に頭を置くにはちょうど良い高さなのか、必ず犬のキャビアさんがいた。
おばあちゃんが外出する時は、足が悪いこともあって、手をつないでいたのだけれど、実母方の祖母と過ごした時間に似ていて、楽しかった。おばあちゃんがお引越しする際に不要になった家具とお皿5枚と灰皿をいただいた。お皿を使う度におばあちゃんのお皿と思いながら使うので、いつもよりお皿を大事に使える。
面白いもので、私の記憶は楽しかったある一定の時期から変わらずで、亡くなると、その光景から、その存在が抜けていく感じ。だから、今回はあの光景から、キャビアさんがいなくなり、おばあちゃんがいなくなった。
年齢を重ねることには抵抗はないけれど、別れが続くのは避けられなくて、楽しいことだけ考えよう、生きている間にみんなに会えたら、思いっきり笑って別れようと決めている。
久しぶりに津波の映像を見た。9歳のかんちゃんは、初めて見る光景だった。アサコの友達もここにいて、山(高台)に逃げて走ったんだよと話した。死んじゃったの?とその映像を見ながら、聞いてきたので、いや、生きてるよと言いながら、当時を思い出した。
東日本大震災の発生当時、官房長官を務めた枝野さん。震災当時、青色の作業ジャンパーで不眠不休の情報発信を続けた姿は、脳裏に焼きついている。
あれから10年目に合わせて出したコメントを読んで、やはり現場にとても近い人間だったんだとあらためて思った。
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−10年がたちハード面の復興は進んだが問題は山積している。
枝野氏 孤独死が増えている。コミュニティーが壊れてしまっている。大規模のかさ上げ工事をやった。だけど、その間に被災者がバラバラになって、帰って来る人が少なくなった。大規模のかさ上げ工事は否定しないが、スケジュール感を明確に示して、何年待てば、何ができるということが見えないまま、10年進んできたことで、出ていかなくてもいい人たちが出ていってしまう。出ていきたくない人が出ていかざるを得なくなってしまった。そして生業(なりわい)です。働く場所と業を起こすこと。政治行政がサポートすることができたら、と大変残念に思う。
−国は福島第1原発の放射性物質トリチウムを含んだ処理水を来夏にも海洋放出する方針を固めた。風評被害で死活問題となる地元漁業者は強く反対する。
枝野氏 安全と安心は違う。安全は専門的にいろんなことを言う人がいるけれど、そのことで多くの国民が安心するかどうか問われている。いくら専門的に安全だ安全だと叫んでも、そのこと自体は本質じゃない。処理水の問題は現状ではとても認められない。
−復興へ、今後の重要な課題を挙げると
枝野氏 危機管理庁を創設すべきです。内閣府の防災担当は頑張っているが、これだけ災害が相次ぐと、もっと人員を増やしてノウハウが蓄積されるようにしなくてはならない。実際に町長さんが津波で亡くなって、町役場がほぼ全滅というような所が出てきた。その時に、国が直接やらざるを得ないということが、たくさんあるのに、そういうチームがいまだにない。
◆枝野幸男(えだの・ゆきお)1964年(昭39)5月31日、宇都宮市生まれ。東北大卒。弁護士を経て93年、日本新党の公募で旧埼玉5区から初当選。当選9回。鳩山内閣で事業仕分けチームを統括。菅内閣で官房長官、野田内閣で経産相。家族は妻と2男。
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メモメモ
1.今、「何をやる」べきかの課題を見つけられる人(課題の発見)
2.仕事のテーマを見つけて、自発的に行動する人(課題を改善)
3.自分の間違いを認め、人の意見を吸収できる人(知恵集め)
4.私の間違った意見や見方を修正してくれる人(主張)
5.自分の仮説をデータで検証し、全国標準を書き換えられる人(実験)
「How to」より「What to」。何をすべきなのかが、わかる人が「できる人」です。
経営課題を発見でき、改善し、知恵を集められる。きちんと知恵を集めた結果、仮説を検証・実験し、標準化まで持っていけるか。自分だけの考えではなく、会社全体の考えとして体系的に標準化ができるかですね。
まず、課題を発見できることが一番重要なので、私もいろいろな社員に「今、何の問題がありますか?」と聞くようにしています。
問題発見できる人は、課題解決に進むからです。
課題を見つけるのは、意外と難しい。そもそも、改善意欲がないと発見しませんから。
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若い頃わたしが「自由だ」と思っていた多くの要素は「妥協の産物」であり、上からと下からと右からと左から迫りくる壁のなかで、なんとか活路を見出す「箱庭のもがき」のことでした。
仕事における「自由」とは、「できること」と「許されていること」と「会社や読者(顧客)に望まれていること」をすべてクリアしたわずかな手持ちピースの組み合わせに「やりたいこと」を織り交ぜて、なんとか「成果」というパズルを完成させることだったわけです。
「自分がやらなきゃ」、「自分でやったほうが早い」を積み重ねていくと、「誰もやってくれない」に行き着かざるをえなくなります。作業の責任とは、「それを(面倒くさくても)適切に割り振ること」まで含まれていると思ったほうがいいようです。
誰にも割り振れずに自分でやり続けるかぎり、仕事は(作業者の器以上には)まったくスケールしないし、そもそも管理職を置く意味がなくなります。
仕事全体の成長が止まるだけでなく、管理者は自分だけで仕事を回している気になって心も体も削れていき、周囲も仕事の最適化について考えなくなります。わたしはなりました。すまん。
釣った魚を分け与えるだけでなく、釣り竿を渡して釣り方を伝えることまでが仕事なのですよね。
もっとはっきり書けば、管理職は管理に専念したほうがいいし、作業員は作業に専念したほうがいい。「仕事を分けて、環境を整備する」ことこそが「管理」の第一歩だったりするわけです。
アリストテレスは、「優秀さとは、単発的な行動ではなく習慣のことである」と言ったそうです。毎日なにを積み上げていけるか、そのために何を準備すればよいか。
どちらも共通して書いてあったこと。
ほめて伸ばすのが教育の基本です。とにかく、苦手意識を持たせないこと。
子育てみたいだ。。。
最近、実家の母を想うことが多い。
今まで自分の人生は、人とずっと比較されてきた気がしていて、どうせ自分なんてと思うことでやり過ごした感がとても強かった。が、最近、馬さんと人生を振り返るきっかけがあり、そこで気づいたのは、シンプルに、自分は両親からとても大切に育てられたことだった。いい年になって大人気ないけれど、私の人生、結構つらい時があったと訴えたことがあって、母はそれをとても気にしてお手紙にごめんなさいと書いて送ってきた。でも、両親の想いに気づいた今、母を責めてしまったことと、暴言を吐いて甘えている自分を悔やんでいる。(甘えられるうちは甘えとけ精神でもあるが)
そして、今の自分は自分が築いてきたと自負してきたのに、気づくと好きなモノや物事の考え方(価値観)が母にとても似ていて、いつのまにか、母の背中を追いかけているのだと気づいた。
だから、今は本当にありがとうという感謝のキモチしかなくて、こんな想いにふけてしまうところがなんだか不吉だと、内心ドキドキしている。
かんちゃまんの担任の先生は28歳で、やる気に満ち溢れている。見た目は大学生みたいにも見える。コロナの影響で、2学期になって初めて行ったクラス別の保護者会は、穏やかなものではなく、それでは指名しますねとクイズ形式なうえに、最後は保護者の方で話し合ってみましょう!くらいのアグレッシブなものだった。はい、よくうなずくマツダさん!とあてられたのに、全く思い浮かびませんと答える残念な母。
しかし、この感じ、なにかに似ていると思っていたら、営業の新人さんに似ていると、昔の自分を思い出した。パワーをすべての対象に使うこと。学校で当てはめるならば、子どもしかり、保護者にも全力でぶつかる。とりあえず、なんでもやってみるしかない!という根性。信じていれば救われる精神。
かんちゃんまんは、人よりも成長が遅れているので、1年生の頃から学校には、息子がクラスの進行の妨げになるような迷惑をかけない限り、端っこでも良いので、おいてくださいと伝えている。だから、面談ではいつも頭を下げることが多くて、面談後には、あぁ、今回もまだ学校にいられるとホッと胸をなでおろしていることが多かった。
が、やはり、この担任の先生、若いからなのか、かんちゃまんのためにも全力投球。言葉の組み立て方が特に弱い彼のために、どうやったら、文章がうまくかけるようになるのかずっと考えて、昨日、答えが出たんです!聞いてくれますかっ!?と、前のめり気味に言われ、は、はいと、この私が引くくらいの勢いだった。だが、このキモチを無駄にしてはいけないなと感じていたり。営業ならば数字に出てきたり、相手が少しでも変わったのがわかると、達成感があるのと同じで、先生のためにも学年が終わるときには、信じてやって良かったと、何か1つでも変化を感じてもらえるよう、かんちゃまんと成長しようと、母は変な使命感にかられている。
が、最近の彼は絶賛反抗期。フォートナイトとにゃんこ大戦争ばかりしている。しかも、意外にうまいので一概にやめなさいとは言えない。が、ドヤ顔が憎たらしい。可愛いのは寝顔の時だけと、以前知り合いが言っていたけど、それが今でR。
急な連絡ですみません。
実はヤスが亡くなりました。
とフェイスブックから、大学の後輩が連絡をくれた。あのヤスが?と、信じられなかった。もう20年近く会っていないのに、大学のみんなで駆けつけなければという気持ちで、葬儀は?と聞いたところ、次の様なメッセージが届いた。
6/18夜に自宅で倒れそのまま、25日に発見です。解剖の結果、死因は心臓梗塞ではないかと。腐敗が進んでたので葬儀はなく、昨日コウタと2人で火葬に立ち会いました。
柴又の叔父の時同様、自宅で亡くなったので検死して、すぐ火葬だったのだと容易に想像ができた。
私の大学は田舎の大学で、そもそも留学生が少なく、日本人も私の学年の1つ上の先輩と下の後輩だけだった。だから、必然とみんな仲が良かったし、青春も謳歌した。田舎過ぎたから、2年くらいでそれぞれやりたい事を見つけて、ハワイやNYへ転学したりもした。その後、社会人になっても、どこかしらのメンバーがつながっていて、一声かけると、集まるくらいの結束力があった。
だから、今回も他のみんなに連絡してあげてくださいと真夜中にメッセージを送ってきた。
この年齢で、同じ年代の訃報を聞くなんて、思ってもみなかった。もう、会えないんだ。ただ、それしか、今は考えられない。
写真はみんなの思い出が詰まったディートリック(学生寮)。
なかなか高いお皿は買えないのだけれど、これまた、食器好きの母上の元で育てられたため、お皿への思い入れは結構強い。
小さい頃、白いハートの大皿はパーティーに使う皿、和食器の大皿はお寿司をのせる皿、煮物を入れるための古食器の深い皿、取り分ける小皿はこのお皿などと思い出とともに、記憶に刻まれている。
夏休みに父方の実家へ行き、親戚みんなで使ったガラスのコップやお箸、小皿も覚えている。そして、祖父母のお家で楽しかったのが物置小屋に眠っている古食器や古道具など、いわゆる、骨董品を探すのも好きだった。
洋食器は高くて買えないけれど、小さい頃からデパートで眺めることに付き合わされていたので、当時の高級食器のブランド名は嫌でも覚えていて、当時の川徳(盛岡で唯一のデパート)の食器売り場の配置も思い出せる。
よくインスタ用に料理の写真を撮る人が多いけれど、私はこの料理にはこのお皿は映えるなぁ、美味しく見えるなぁと写真を撮らせてもらう場合が多い。
そんなこんなで、私もお皿は好きで眺めるだけでも、幸せな気持ちになる。が、よく割る。ガチャンガチャンと大雑把に扱うため、かけた食器を見ては、自分の性格を悔やむ。
そのため、日常よく使うコップはIKEAなどでまとめ買い。割れてもショック度はそこまで大きくない。しかしながら、子を持つ親になった今、丁寧に扱いなさい!大切にしなさい!と、自分にも半分言い聞かせながらの注意になってしまった。
もし、宝くじが当たったら、食器を買い漁りたい。でも、小さい家だから、食器を入れる棚がない。でも、夢を見るのはプライスレスでR。
写真は、やはり欠けてしまったお気に入りのフランス食器。海外では前菜に使うのかななんて妄想しながら、使っていた。
たまたま出産の入院中に見ていた徹子の部屋。日本に帰化したスウェーデン人の庭師のヤコブさん(村雨辰剛さん)。彼は師弟制度に憧れ日本で庭師に。スウェーデンでは、昔は師弟制度があったけれど、今は専門学校で学ぶ事が多いのだとか。
印象的だったのは、今の日本は叱らず、褒める育て方を推奨しているが、その彼からすると、その育て方をされた人達は、大人になっても、褒められることを求める人が多いと感じているそうだ。裏を返すと、それは自分の成長も人任せに見えるとのこと。これは確かにと、仕事でお付き合いのある役員さんと以前話していたことに結びついて、納得がいった。今の若い人は。。。なんて自分が言う日がきたのもなんだか残念でえらそうなのだけれど、私は年齢関係なく真っ向からぶつかっていくタイプなので、参考になる話だった。
また、専門学校やSNSで情報を見る得るといった受け手に偏った学び方だと、本当に必要な知識や成長は取得できないとも言っていた。どんな時もアグレッシブ(積極的)にと。師弟制度に憧れ庭師を目指したヤコブさんは、師匠から直接教えてもらったことがなく、師匠や兄弟子の動きを見て覚えろと言われ、諦めずに食らいついたそうだ。そして、師匠について学んだ5年間一度も褒められなかったけれど、得るものはとても大きかったと語っていた。
アメリカにいた頃、名もない田舎の大学をみんなから数年遅れて卒業した出来損ないの私は、就職も厳しいだろうと悩んでいた時期がある。その頃にたまたま出会ったアメリカの会社経営者に、その話をしたところ、大学の名前や学んできた事よりも、社会に出てからの方が大事だよ、20代をいかにがむしゃらに過ごして積み上げるかで違うよと言われ、背中を押してもらった。だから、最初に就職した会社やメンバーには、たくさんの迷惑をかけ、たくさん学んで、喜怒哀楽に満ちた時間で刺激的だった。その分、自分の成長も感じられた。
て、褒められたいのはきっと、年齢問わず、求めたり嬉しいことで、何を隠そうこの私は褒められると、調子に乗りまくるタイプなので、環境や状況によって使い分けるのが良いのではと、個人的には思っていたり。
今年の目標は、まだ掲げていないけれど、かんちゃまんにもよく言っている、なんでも丁寧に、諦めない、人のせいにはしないあたりが、私も必要な気がしている。
写真は、お土産をどっさり持って自宅にやってきてくれた父上。ちなみにかんちゃまんの呼び方変遷は、以下の通り。盛岡じぃじ→盛岡→よういちさん(今ここ)
]]>数字はどのシーンにおいても、結構大事で、物事を明確にしてくれる。USJをV字回復に導いたと言われている森岡毅さんの講演会でも、数字によるデータ分析(マーケティング)を目の当たりにして、ご自身のダイエットにおいても、運動、食事等の因子と、体重という結果の間にある関数を解明しており、あー、数字って恐ろしいと個人的に思っていた。
そして、近くにいる馬さんも実は、数字に強くて、昔からやっている競馬の影響からなのか、何でも数字を記録して分析したがる。ネットで海外の論文まで見に行ける便利な時代になったからなおさら、エビデンスは楽しいねと、自分のトレーニングやら、かんちゃまんの記録やら、家計のやりくり(私がやったら家庭崩壊する)など、これがこうなるということはこういうことなんだよと説明してくれる。が、理系だったとは思えないくらい数字アレルギーの私は、大体そんな時はふむふむと言いながら上の空。
しかし、そんな私でも今回は、まさかの出産で、その数字の恐ろしさを目の当たりすることになる。
というのも、今回も私の意志で一人で出産に望んだのだけれど、いわささんは最初から分娩室で処置から出産まで終えるので、一人になる時間は少なく、ずっと助産師さんがそばにいてくださった。だから、前回はあえて聞くこともなかった機械や点滴などの話もしなかった。が、ここで裏目に出たのが私のわからないことはすぐ聞く「I have a question!」精神。あの機械のあの数字は何ですか、点滴のあれは何ですかと、まだ陣痛が進む前に、すべて聞いてしまったのでR。
今まで知らなかったからやりすごしていたのに、知ってしまったから、今の自分の状態、陣痛の感覚、点滴の内容や速度を、数値で見事に把握することに。陣痛でも、絶対こっちの方向が楽なのにと思う方にその機械や点滴があるから、嫌でも目に入ってきて、かなり後悔をした。結局楽な方向はその数値が気になり過ぎて諦め、逆方向で耐えることに。
そして、最後に陣痛MAX、出産という時に助産師さんに、あ、すみません、今、そちらに行けないので、反対側のナースコールボタン押してください!と言われ、あの数値達の方向を向き、力いっぱいナースコールを押すという猛烈な一撃をくらった。といっても、その時は数値なんてぶっ飛ぶくらいの痛みで、もういきまないでなんて、むりーの極地だったわけだけれども。
しかし、数値を改めて嫌いになり、自分の知りたがり精神も裏目に出るとこうなるのかと学習した出産でありやんした。
写真は入院中、かなりお世話になった充電式の湯たんぽと、ちく○が切れた時にすぐ治った羊さんの毛の油(ラノリン100%)、ランシノー。
1月6日15時10分に2808gの次男を無事出産。翌日に会いに来たお兄ちゃんは弟を見て、優しく触り、うわー、特別なぷにぷにだーと喜んでおり、翌日の登校初日で冬休みの出来事で弟が生まれましたと発表したそう。
さて、今回の出産ですが、やはり8年前と何も変わらず、朝8時にタクシーで、じゃ、行ってきます!とリュック一つを背負って家を出発。その後、すぐに着替えて朝9時に子宮口を開くため、あの魔の風船を挿入。が、経産婦だから、あの痛みはなく、あら?首の手術の方が痛かったなぁと拍子抜け。その後、分娩室へ。
昔から注射や採血の度に、血管が見つかりづらいと言われており、今回も一回目失敗。最終的に10時に利き手の太い血管で、促進剤の点滴スタート。お腹の張りが始まり、陣痛って何だっけ?と余裕をこいて、周りの器具の話(魔の数字参照あれ)や産婦人科の話などしていたら、きた、陣痛が。あの下腹部を襲う激痛が。。。
気を紛らわすために、なにか、なにかないかと思っていたら、赤ちゃんの心音が、いろいろな音に聞こえてきた。まずは、とんぶりの寝言のバフッ音。ずっと、バフバフバフバフに聞こえてきて、とんぶりーとなり、次はかんちゃまんの声で、わっしょいわっしょいわっしょいからの、よっこいしょよっこいしょと、私が妊娠後期に彼が私によく声をかけてくれた掛け声に聞こえてきた。しかも、最後の心音はとどめかの様に、ろかろかろかろかの響き。まだ、生まれてないのに次男の名前が聞こえてきたーと、一人分娩なのに、心音から応援隊が。
12時の時点で、風船がはずれていないか、子宮口の開きを見てくれたのだが、進んでないなぁとの助産師さんの一言に、経産婦だから、私の今日の気持ちは、もって17時までですよ、それまでしか、気力持ちませんと内心思っていた。しかも、空腹感が追い打ちをかけ、あー、長期戦かぁとモチベーションダウン。
そして、午後2時、助産師さんが尿を管で出してくださった後、状況が一変。膀胱のふくらみが減ったので、赤ちゃんが一気に下がってきて、陣痛の感覚も短くなったのでR。助産師さんも、え、こんなに早いの?!となり、風船とれーの、破水しーので、院長に分娩始まりそうですと連絡をいれてくれた。私も長期戦かと思っていたので、分娩に向けての心持ちが準備できておらず、かんちゃまんの時と異なり、呼吸とパワーのペース配分がごちゃごちゃに。案の定、過呼吸になり、母、手足のしびれがすごく、酸素マスクをつけられる。あ、もう、いきみたいという私に、まだまだまだ!と助産師さんにストップをかけられ、今、そちらに行けないから、ヘルプを呼ぶため、ナースコールを押して!と言われる。キモチ飛びそうになりながら、ナースコールのボタンを押す。全員揃ったところで、分娩開始。ワンプッシュ目、なんだか、中途半端ないきみ方を感じながら、あとワンプッシュでいくよ!と言われ、あと一回でいけるのかと気合いを入れて押し出す。血液が飛ぶ感覚があったものの、息子の泣き声が聞こえ、顔が見えたので、一気に気が抜けた。
なぜプッシュ2回だけでだったのかは、赤ちゃんがへその緒の絡まりがあり、長く産道に置いておけないという判断で、早めに会陰切開をしてくださった。胎盤はすぐ出たのだけれど、私自身の子宮も破れて?しまったみたいで、術後は中と外を縫合。また、出血もあったので、出産後、2時間は手術と点滴で分娩室に。点滴時(16時)に、15時のおやつまだあるみたいだけれど、食べれないよね?と聞かれ、欲が勝ち即答で食べます!と、生まれたばかりの次男を見ながら、幸せだなぁとおやつをすべて食す。
生まれたばかりのろかさんは、私の顔に似てるような、いや、私の祖母(母方)に似ている!という印象。
今回、よく助産師や看護師のみなさんに聞かれたのは、ご主人が立ち会えなくて、残念でしたねぇと。いや、長男の時もそうですが、私の希望なんですと言うと、あれ、触れちゃいけない?みたいな空気が流れ、いや、人がいると私が気持ち的に甘えるのと、気を使いたくないんですと言って、あー、そうなんですね、今どき珍しいと言われた。今はどなたかが立ち会う方がほとんどだそうで、反対に私が驚いたほど。でも、今回は助産師さんがずっと近くにいてくださったので、やはり、前回よりも痛いとか、もう、我慢できないかもと甘えが出ていた気がして、私は昔から自ら過酷な?厳しい?環境に身を置かないとダメな人間なんだなと改めて感じた。
さて、出産してから現在、3週間近くの息子さんは、ありがたいことに、お布団で一人で寝まして、3時間ごとにきっかり起きる。あと泣くのはオムツが気持ち悪いときだけ。今のところ、乳腺炎にはならず、第一子の時よりも体の回復が早く、外出も苦にはならず。かんちゃまんもせっせと弟くんのお手伝い?いや、母にこき使われ?助かっている。
今回の出産ももれなく、馬さんが産院の候補を上げてくれまして、一般家庭だし、貧乏性の私はいいよ、お金のかからないその辺のところでは決まらず、ちょっと贅沢な産院で次男を産んだわけで。今回は交通の便と、雰囲気と、高齢ということもあり、お医者さんの安心できるところで、ということで、いわささんで。
のちのちわかったのだけれど、かんちゃまんの学校でも、婦人科や産院良かったよ!の候補であがってきたのが、いわささん。
ベルンの森と比較すると、いわささんは院長さんが中心なので、流れ作業感がなく、患者さんそれぞれをしっかり診てくれる感じ。キモチの安心度を記号で表すと、ベルンの森は、医師≪助産師さん。いわささんは、院長さん≧助産師さん。いわささんの助産師さんや看護師さんの皆さんも、よく声をかけてくださり、ちょっとした雑談を楽しんで良い気分転換に。
お部屋もちょうどいいサイズの個室で、お土産も後日すぐ使えそうな実用的なモノばかりでありがたかった。写真を動画にして、1ヶ月検診で渡してくださるDVDのプレゼントもあり。
食事はベルンの森と変わらない、毎回フルコース的な料理。食べることが大好きな私は、実は陣痛中から、いつのタイミングから食べられるかなぁと、逆算していた。今回はお正月明けということもあり、七草粥やおやつにおしるこ(かんちゃまんがちょうどやってきて、お餅だけたいらげていった)なんてものも。もちろん、どれも美味しくて、毎回ありがとうございますと完食。
ありがたかったのは、出産後にビシバシやらないシステム。初産と異なり、いや、高齢だから?回復度と気力が低下しているため、ずっと同室で頑張れるか、ドキドキしていた。が、8時以降は希望を出したら、預かってくれる。また、完全母乳を推してはいないので、お母さんの希望に合わせて柔軟に対応してくれる。
朝も院長さんが自ら回診して、声をかけてくださり、極力プライベートを大事にしてくださってる感があり、これから戦い?のお母さんにはありがたい配慮。
Wi-Fiスポットはないので、家族や知人と赤ちゃんの写真や動画のやりとりをされる方、入院中にAmazonPrimeを見る方は、個人のポケットWi-Fiを持っていくか、産院からiPadをお借りすると良いかも。
また、料金は最近、改定(2020/1/14時点)をされたようですが、こちらは経産婦さんの割引料金を差し引いた額が掲載されているようなので、初産の方はお気をつけ。私は精算時に予想外の出費に、ひゃーとなった一般家庭なので。定期検診費用などは、電話や受付で問い合わせをすると、事務の方が丁寧にも教えてくれた。
そして、前回の産院と違って戸惑ったのは、計画分娩だからだと思うのだけれど、入院した初日はすぐ分娩室へ直行。そこで促進剤スタートからの出産。前回は最初、入院する個室からだったので、持ち込みたい携帯や飲み物は事前に準備していた。今回は陣痛中に二人分の富士山を書こうと思って赤ペンを用意していたけれど、用意する間もなく、処置が始まり、あれよあれよという間に出産。携帯も近くになかったので、処置完了二時間後に写真を撮りたいですと申し出て撮影。もし、私同様、お一人様で出産に望む方は最初に必要な物を近くに置いておく準備をおすすめしまうす。
あの切開を乗り越え翌日の再診。また、別の先生の診察。見た瞬間に、あ、こりゃ、もう一回、麻酔と切開だわとのお言葉が。。。ワタシ、心の中で、ウソだー、ウソだと言ってくれーと叫ぶ。やっと声に出たのは、あの痛い麻酔注射をまたやるんですね。。。のボヤキ。すると、ここ数日、連日通い続けているだけに、私のキモチをくみ取ってくれたのか、少し麻酔注射が痛くないようにしてあげるからねと、日曜日の診察は一人のお医者さんで回していて、2時間待ちで混み混みなのに、氷でゆっくり冷やしてくれた。
あのベテランの看護師さんも安定の優しさでお腹をなでてくれ、赤ちゃん大事だからね、ここの看護師さんはみんなママだからね、キモチよくわかるよと言ってくれた。ママにとっては、今年のPTAに始まり、ママのサポートは本当に心強い。さすが、声がけのマスターと思いながら、お隣りから聞こえてくる声がけも、つい聞き耳をたててしまうくらい、子供からクセ者?まで、まぁ、見事な声がけ。しかも、今日の先生は、それ、患者さんが一番欲しい言葉!と思う「僕が責任もって最後まで診ますから、大丈夫ですよ。」なんて宣言している。心強い言葉だけど、自信がなければ言えない言葉だなと思っていたり。
そして、私の麻酔と切開の番。お腹の子はなぜか、かぁさんの緊張を察したのか、まぁ、激しくお腹を蹴りまくっていた。元気で良かったと思いながらも、母は緊張マックス。麻酔注射は冷やしてくれたお陰で、昨日より痛くなかったのに、切開してからの、残りの粉瘤の取り除きがまぁ、痛い。今日診てくれた先生は、場所が首だからね、医師によっては、切除を思いきれないのよと本音がポロリ。ニオイがまだするて事は、まだ、どこかに残ってるって事なのねと、ドクターXを見てるみたいな解説を看護師さんにもしながら、小さい皮膚科なのになかなかの時間を私の切開に要してくれた。あ、やっぱり、ここだ、ひとつじゃなかったんだ、結構深く癒着してるなと言いながら、僕は今までこんな切開ばかりしてたからねと、しっかり残ってないか確認してくれ、ここは麻酔が届かない場所だから、痛いよね、でも、あと少しだから、頑張れぇと励ましてくれながら、終了。私のすごい手汗と少しの涙と肩凝りが、今回の痛みを物語っていた。
お母さん、頑張りましたね!と、先生も体をなでてくれ、数人の看護師さんもお疲れ様でしたと、ゆっくり休んで自分のペースで起き上がってくださいと最上級の優しさで接してくれた。一人の看護師さんは、私があまりにも深呼吸を繰り返していたので、過呼吸ではなかったけれど、念のため、血圧も測ってくれた。
明日も再診なのだけれど、終息に向かうことを願いながら、また明日も一日、病院と冬休み前の小学校保護者会で一日潰れるという、産休だけど、忙しい毎日になってしまった残念な師走。
アフガニスタンの銃撃で亡くなった中村さん、そして、余命3年のガン宣告をされたカメラマンの幡野さんの言葉には、なんだか共通することがあるなと感じている。
境遇は違えど、お二人とも素直に現実を受け入れ、その中には強い意志もあるのだけれど、自分の考えを人に押しつけることなく、こんな混沌とした世の中なのに、物事を実にシンプルに考えられている。
だから、情報整理が苦手な私には、お二人の言葉がすうっと入ってくる。いくつか、自分のメモ用に転記。
■中村哲博士
「敵を作ろうとはしていませんでした...最善の方法は、みんなと仲良くすることです...なぜなら、人々は私がそこに頼ることができる唯一のものであり、それは銃を運ぶよりも驚くほど効果的だからです」
「これからの時代、どんな人を育てていくべきか。誰か泣いている人がいたら、『どうして泣いているの?』と駆け寄ることができる気立ての良い子どもが増えてほしい」
「誰かに裏切られたと思っても、すべてを憎まないことが大切。その部分だけではなく、良い面もあると信じて、クヨクヨしないということが何よりも大切」
「ちょっと悪いことをした人がいても、それを罰しては駄目。それを見逃して、信じる。罰する以外の解決方法があると考え抜いて、諦めないことが大切。決めつけない『素直な心』を持とう」
「無理やりやってもダメ。悲壮感は十分な原動力にはならない。好きなことや、やめられないようなことを思い切ってやってほしい」
■幡野広志さん
子どもの記憶だって、日々たのしいことで上書きされていく。子どもだから忘れるわけではなく、それだけ人生が充実している証拠だ。
いまを生きていないおじさんほど、むかし悪かった自慢をしたり、過去の栄光という本人しかのめない酒でベロベロに酔いしれるものだ。
思い出は怖いことや不安なことよりも、たのしいことや優しいことのほうがやっぱりいいだろうとぼくはおもう。記憶が子どもの心を支えになり、守ることにもなる。
私は岩手県で生まれ、高校まで過ごした。先日、馬さんとたまたま環境因子の話をしていて、改めて思ったのは、自分は田舎で育って良かったと。
生活感がないと周りから言われていた少し変わっている?母の影響もあり、田舎暮らしでも、小さい頃から、私の都会や海外の憧れは人一倍強かった。
けれど、人生の大きな分岐点で理想とは異なる道を選んできた背景には、田舎精神?が大きく左右したのかもと感じる時がある。大学も当初予定していたボストンから、ど田舎のペンシルバニアに変更。職場も新宿から、八王子へ。きっと、それはドライすぎる人間関係や環境を避けている?しっくりこない?自分がいるからだ。
それは先日、カンブリア宮殿で特集されていた父上の故郷の煎餅メーカー「小松製菓」さんの社長さんの言葉でも、あ、これだと感じていたり。岩手県の人はみんな確かにこんな感じだと。
「母が言ってました、『あなたが好き、幸せになってね』と思えば、その気持ちは返ってくるものだと。こっちがその人の幸せを考えてあげれば、自然にこっちの事も考えてくれる。その同じ気持ちが相手から引き出されるもんだという事を言ってましたので、今もその精神を引き継ぐようにしています。」
「みんな、真面目なんですよ。陰日向なく、立派なんです。」
この温かみや真面目さが少なくとも、自分もいつもこうありたいなぁというベースになっていたんだと。これは都会では感じにくい要素で、田舎ならではの人間味や風習がいつの間にか自分に染みついて、それが心地が良かったのだとこの年になって感じている。
大げさだけれど、お陰様で私は今まで大病やら、手術をしたことがないため、めっぽう、切開とか痛いという言葉に弱く、免疫がない。だから、今回、粉瘤とやらを放置→化膿→切開になった自分をかなり悔やんでいる。
まず、粉瘤が首の頸動脈の上にできていたことは、医療関係の仕事をしている家族に囲まれて生きてきたため、内臓やら血管やらの部位と病気を頭にすり込まれている私でも、まぁ、嫌なところにあるなとは、自分でも気づいていた。
でも、人生万年面倒くさいベースで生きているがために、ま、命にかかわるものではないしねと、今回は完璧に見て見ぬふりをしていた。実家にいる時は、私の性格を知り尽くしている母が、明日行ってきなさい!と無理やり病院へ引っ張りだしていたので、こんな事にはならず。。。
話は戻り、ただいま妊娠後期で、今回はかんちゃまんの時と異なり、重いつわりから始まり、後期もカタログ数冊持てないくらい力が出ず。あー、産休って大事だねと思うくらい第一子とは全く違う状況。
そんな中、違う部分が痛み出し、切開になる始末。優しい女医さんが、あー、あー、とこんなコンボだから、苦笑いしていた。はははーと、私も状況を把握しているだけに、苦笑いして返すみたいな残念な初診を迎え、2日後の産休に入ったら、すぐ切開!と言われ、落ち込み、仕事納めなんてことより、はよ、この切開を納めたいねと頭の八割は切開·切開·切開で埋め尽くされた。
良かったのは、この皮膚科の看護師さん達とお医者さんがぶっきらぼうではなかったこと。病院で一番避けたいのが、患者さんの対応を業務的に流れ作業でこなす病院。この皮膚科は電車で通う場所だけれど、スタッフさんの声がけや院内の案内も管理されていて、よく待合室で見受けられるイライラ患者さんがいなかった。個人的な意見だけれど、これは結構大事な要素で、病院で普通でさえ、ナーバスになっている人に追い打ちをかける空気感がないと負の連鎖もなく、ありがたい。
切開当日、朝から切開のカウントダウンが始まり、病院へ。お医者さんは男性に変わったのだけれど、淡々と、かと言って優しくないわけではない人が、じゃ、やっちゃいましょうと。が、私の恐怖心は拭い切れず、やたらと深呼吸をしまくる。が、ここで、かんちゃまんの出産時同様、救世主現る。初診でも一緒にみてくれたベテランの優しい看護師さんが、切開時にお腹の部分に手をそっと、おいてくれて、安心させてくれた。これ、麻酔より効くよ!と思いながら、切開終了。
そして、今。麻酔が切れたらどうなるのよと思っているけれど、実は痛みに弱いか強いかと言えば、強い方だと思っていたり。それは出産時に裏づけされており、陣痛の時から館内外に響きまくるほど発狂していたらしいイモウトとは異なり、分娩室に入るまで一切、看護師さんを呼ぶことなく、ひたすら一人深呼吸で大きな声も出さず、乗り越えた経験があるからだ。助産師さんにも、すみません、ブザーも特に鳴らなかったから、他の患者さんにかかりぱなしで、放置したみたいになってと謝られたという過去がある。つまりはだ、私が痛みに弱いのは、まぁ無駄に大きな想像で出来上がっていて、あー、大変だよー、死んじゃうよー、チビッちゃうかもしれないよーと、一番残念なタイプの人間じゃないかと、今回の件で実証されてしまった。性格なので、対策や防止策はないけれど、放置はやめようと少しだけ反省しましたとさ。おわり。
かんちゃまんが胃腸炎になりまして、これは免れないぞと思っていた通り、彼が治った翌日に発症。仕事終わりかけに、きたかもとお手洗いへ。見事に上下から、スパーク。無事に帰宅できるかがミッションとなりまして、18時に会社を退社。そこから、夕食を買うことと、路上でスパークしない様、300mずつ、トイレ行商が始まる。その点、住んでいる場所がある程度の都会で良かったと感謝。なんとか、20時に帰宅し、もう一人の体調悪い大人と、お互いわぁわぁ言いながら、とりあえず眠りにつく。夜中にむくむく起きてきた、息子さんに遅い夕食をすみませんねぇと言いながら、提供。たまたま翌日はお休みだったので、ウィルスを体内から追い出すことに専念し、飲まず食わず。我ながら良い判断をしたねと一日半で、通常復帰。しかし、体調崩すと、精神的にも体力的にもキツイ。ノロよりは軽いが、やはり、健康でいられることに感謝。
写真は学習発表会。いつだって、ツッコミどころ満載のかんちゃまんに元気づけられる。
]]>40歳になってから、より考える様になったのは、これからどんな自分でありたいか。ま、昔から、強い女性でありたいとは思っていたけれど、若い頃と違うのは、みんなから愛されたい欲が減ったこと。だから、どう思われても、愛してほしい人だけに、焦点を絞ることを覚えた気がする。たまたま、メーガン妃の記事を見かけて、あ〜、タフだなと思ったので、下記、自分のメモ用にそのまま転写させてもらった。先日、国内メーカー企業の数社のトップが女性になった話を馬さんと話していて思ったのは、これからの日本の女性は、地頭はもちろん海外で揉まれて、周りの評価をものともしない精神力や、男性の圧に打ち勝てるブルドーザーみたいな人じゃないと、太刀打ちできない社会になりそうだということ。
メーガン妃にとって、人々に愛されるかどうかは大切ではないという。同妃は、自らの社会的地位を使い自身が支援する様々な運動に光を当てることを重視しているため、自身の発言が反感を呼んでも心配しないそうだ。
友人であるブライオニー・ゴードンは、デイリー・テレグラフ紙にこう綴っている。「私がメーガン妃と知り合いになってから学んだことと言えば、彼女は何事も行動に移す人で、問題があってもそれに甘んじる人ではありません。彼女は問題の中ではなく解決策の中に生きているのです」「彼女は、人々に愛してもらわなくてもいいと話していました。それよりも彼女の話を聞いて欲しいと。メーガン妃が大切にしていることは、自らの声を使い、彼女よりも恵まれない立場にある人達にも声を与えることなのです」
またゴードンは、妃が恵まれない環境にある女性達の支援を目的にロンドンに設立されたソーシャルエンタープライズの「ルミナリー・ベイカリー」を訪問した際同行したという。その場で妃は、ベイカリーで働く女性達にこう語りかけたそうだ。「ここ(イギリス)に来てから分かったことは、私がどこかへ行く時、人々はある種の期待を持っているということです。ですから私は、リラックスしようと思ったんです。ただみんなで楽しくやって行きましょうと。だって私達は結局のところ、みんな同じ女性なのですから」「私達は皆、語るべきストーリーがあります。私は、あなた方のものを聞けて光栄です」「全ての層を全て取り除いてしまえば、人間として、そして特に女性として、お互い深い繋がりがあり、そして共通の理解を見出すことが出来ると分かりました」「私達の人生、生まれ育った環境、経験はそれぞれ違います。しかし、私達が繋がった時、私達の希望、恐れや不安、そして嬉しく思うことは、ほぼ同じだということが明瞭になります。それは安らぎを感じられるものではないでしょうか」
大学の友人に15年ぶりに会った。一人は北海道だから、もしかしたら、次会う機会はないかもしれないタイミングで、彼女がオーストラリア出張帰りに東京に寄ってくれた。
年を重ねても、飾ることなく、いつも通り、それぞれのペースで話して、それぞれのペースで言いたいこと言って、それぞれのペースで歩んできて、今に至り、変わっているようで、ベースは変わらない心地よい時間だった。涙が出るくらいずっと笑い通したから、きっと、胎教に良い影響が出たと思う。
以前、Twitterにも書いたけれど、人間が変わる方法は3つしかないそうで、1番目は、時間配分を考える。2番目は、住む場所を変える。3番目は、付き合う人を変える。
中学→高校→大学は、まさにこの3つが揃ったわけで、私自身は変わったかはわからないけれど、その期間に出会ったみんなにはかなり刺激と良い影響を受けたと感じている。
不思議だったのは、久しぶりに会ったのに、朝さんに会うと、なんだかキリッとしなきゃってなるねと言われたこと。みんなの方がずっと優秀でアクティブで、私は人生、9割、面倒くさい、ザ・大雑把で生きてきただけに、そこだけ聞くと、なんだか偉そうに生きてきたなぁと。しかし、持つべきものは友達で、たまに会うと、別に普通の話をしているだけなのに、井の中の蛙になりかけていた自分の姿勢を正される。
写真はなぜか、誰かが、新宿駅の看板を入れて撮ってもらうと言い出し、酔っ払いのおじさんに撮ってもらった、初めての上京で浮かれている集団の図。みんな東京で働いているのにね。
突然だけれども、子供の顔(表情)は本当に私には思いっきり突き刺さる。こんなにも大人の顔色を見て、これ以上責めないでという必死さが伝わってくる。泣けばいいのか、泣いたら済むのか、甘えやがってと、号泣する子供に向かって、何度も罵倒する。これはお前のためだと大人は言う。お前がわからないから、ずっと言い続けてやると脅す。これが子供にどんな変化をもたらすのか、どこまで考えているのだろうか。どうせ馬鹿だから、理解できないんだろ!?と言う大人。理解していないのは、大人のあなたですと私は思う。子供のあんな怯えた顔を見たら、普通の人は、我に返ることができるから。サイコパスの境目はここなのかもしれない。痛みがわかる人間ではないのだから。
もし、私が目の前で同じ状況に遭遇したならば、私は誰にも助けは求めないけれど、血のつながった子供は命をかけて守る覚悟はできている。それくらい大事な命だから。
先日、持ち回りで学校の読み聞かせをしてきた。2冊目を英語で取り組んでみたら、みんなの顔が眩しいくらいキラキラしていて、こども達の素直さと将来を、大人は本当に大切にしなくてはいけないなぁと改めて思っていたり。
前に書いたかもしれないけれど、言葉の持つ影響力は、計り知れないと、改めて思う事があった。言葉を発する側も受け取る側も、性別、文化、年齢、現在の環境、病気や障害、気持ちの余裕、今まで育った環境など、いろいろある要素が入り組んだ中で、100%通じ合えることの方が、難しいことを忘れてはならないと気を引き締める出来事だった。
ややこしいのは、悪ふざけ、自己満足、嫉妬、プライド、理想のからみは、事を大きくしたり、より複雑化し、発信している側には罪悪感がない場合が多いので、個人的には避けて通りたい。小さい頃に、私は両親から暴言を聞いたことは一度もないのだけれど、大人になってから、裏でいろいろあった事を聞いて、ま、それは普通の家族の姿で、ただ、小さい頃に目のあたりする事がなかったのは、とても感謝している。
そして、小学生の私が一度、罪悪感もなく、近所の友達一人を仲間外れにして、仲の良い女子グループみんなで言葉の暴言を吐いてしまい、友達を傷つける結果を招いた。いじめ発覚後にすぐ、グループ全員の親が集まって、どういう事なのかと問い詰められ、夜には帰宅した父から、こんな娘を持って情けないと男泣きされた日を今でも鮮明に覚えている。
その逆もあって、人が何気なく発した言葉が、今でも自分の支えになっている事がたくさんある。きっと、他の人が聞いても、ふぅ〜んで済まされる、普通の言葉なのだけれど、当時置かれていた状況やタイミングによって、その言葉は、私に深く刻み込まれた。今まで何度助けられて、迷った時にうん、これなら後悔しないと指標になったか。しかも、その中のひとつは、留学していた時の寮のフロントのおばちゃん。よく話をする間柄ではなかった人だ。でも、当時は言われた瞬間に相手がびっくりする程、号泣した。
そして、今、犬を飼ったり、親になって実際思う事は、動物だから、小さいから、聞いていないだろう、理解できないだろうは通用しないこと。彼らは、判断材料が少ないからこそ、あるがまま、自然のままを受け入れて、空気感と表情(顔色)などから、敏感に汲み取ってしまう。そして、すべて自分のせいでこんな事が起きてしまっていると、自分を責めることから始めることが多い。
短期間だったけれど、幼児教室で働いていた頃に、たくさんのこども達に出会い、感じたことでもあった。その教室は、月謝が高い教室で、みなさんがとても教育熱心で、こども達の地頭も良かった。学校と塾、部活など、朝から晩までお休みもなく毎日頑張るみんなが、ふと事務の私に、先生あのね。。。と話してくれる中には、それはキミのせいじゃないよと思うことがあって、ちょっとしたすれ違いも、一生懸命、なんでだろう、どうしたらお母さんは喜んでくれるだろう、怒らないでいてくれるのだろうと、葛藤している姿を垣間見た。そこは各ご家庭の問題だし、他人の私が入るなんてもっての他なので、そうなんだねと聞くことに徹した。ただ、本当にびっくりしたのは、こんな忙しいのに、こんなに小さい子が、自分の甘えたいという欲望を抑えて、一番近くの味方の笑顔が見たくて、どうしたらと一生懸命に悩む部分が見て取れて、印象的だった。
本当にこれからもずっと気をつけたい、言葉の持つチカラ。そして、自分の子供にも、言い続けなければいけないと思っている。
かんちゃまんは、親の私がドキドキするくらい、昔から赤ちゃんや小さい子が大好き。外出先でも、小さい子を見つけると、ロックオン。だから、兄弟ができたことは、まぁ、わかりやすく、彼に火をつけた。
薬屋さんでは、ベビーフードのコーナーにはりつき、1歳からのうどんとゼリーとパスタを買うと言いだし、あ、アンパンマンもいいね!と追加をしようとする。ナイキショップでも、一番最初に連れて行かれた場所が、弟の靴はこれがいいと思うよ!と見せてきた。昔、あまり見ていなかった教育テレビも、予習と言わんばかりに、弟のためだと言って見ている。
お腹を触って、胎動を感じては、父ちゃん、すっごい動いたよ!と何度触っても、初めての様に、馬さんに報告している。
ありがたいことだけれど、彼のほうが母乳出るんじゃないかくらい、母性本能が強そうで、今からドキドキしている。知らない子をロックオンするよりはいいかと思いながら、来年はなかなか賑やかな年になりそうだと思っている。
写真は馬さんの背中がフィットするらしい柴。
ある芸能人の方が、結婚3年目で夫婦関係を、まだ探り合いと言っていた。【探り合い】って言葉が、自分にもしっくりきた。夫婦40年選手の方は、良い夫婦関係を築くうえで大切にしているのは、「言葉のキャッチボール」と「当たり前だと思わないこと」。こちらもまた、私にはしっくりきた。
最近、テレビでやたらと、田舎のおじぃちゃんおばぁちゃん夫婦に対して、奥さんを愛してますか?なんて欧米風に聞くけれど、私はいつもしっくりこず、ヤラセ感とテレビから伝わる夫婦の空気感がその瞬間に総崩れして好きになれない。
愛ではなく、探り合いも意味合いが似ている気がする。探り合いのベースには、相手に対してまだ興味もあり、どうしたらいいんだろうと思いやりや譲り合いが存在する。だから、愛なんて言いきらなくても、内に秘めている感じが日本人らしくて良いなぁと。
私は昔からよく話す人間なので、「言葉のキャッチボール」は、苦ではなく、相手が選んだ言葉のチョイスを楽しんでいる。だから、綺麗な言葉、自分が使わない言葉、言い回し、相手に合わせて言葉を巧みに使い分けている人にグッと惹かれてしまう。ご存知の通り、馬さんの言葉のチョイスにはいつも笑わせてもらっている。
「当たり前だと思わないこと」は、夫婦感でなくても大事なことだなと感じる。当たり前=普通にも私は置き換えられると思っていて、私の盛岡の家族は昔から、よく普通と違うねと言われていた。岩手だから、よりその感覚は強かった。でも、夫婦二人で共通の価値観を築いて、ずっとブレない両親と、世間でいう普通でないその価値観が悪いことではないことを教えてくれた両親に感謝している。馬さんは、私の過去をよく知っているので、あの人と結婚すれば一生安泰だったのにと冗談で言うけれど、世の中から見ると、これまたちょっと変わってるこの家族に満足している。それはみんなが平等に与えられている時間に対して、まずは夫婦間で、どの部分を大事にして生きていくか、そして、子供が増えても、その中で幸せを感じる部分が共通しているからかなと思う。
ちなみに、うちの家族は、やさしく、つよく、おもしろく。ときには、ぶつかりあうけれども。
私の叔父で東京の父が、12月に急逝した。なんの兆候もなく、本人もいつもの様に朝ごはんを食べ、11時にブログを更新していた。そして、夕方にトイレでぐったりする叔父を叔母が見つけた。のちにわかった死因は、大動脈破裂だったそうだ。
まさかの別れが周りが茫然とするくらい、こんなにもあっさりくるものなのかと思った。ただそんなに苦しまずに亡くなったに違いないと思うことだけが遺族の唯一の慰めだった。
10年ぶりくらいにイトコで叔父の長男であるガイシ兄に連絡。言葉は少なくても、お互いのことはわかりあえている兄妹みたいな関係。電話で、少しは眠れてる?お葬式の日取りが決まったら、メッセージしてとだけ手短に話し、翌日、業務連絡みたいに、お疲れ様です。お葬式、この日になりましたとメッセージが届いた。
お葬式の場所は赤坂。アクセスがよく、ドンキがある近くに突然おしゃれな建物が現れた。ちなみにここは私の叔父叔母がすでに生前に二人で下見をして決めていた場所。
2分遅刻した私は、バタバタと本堂へ。といっても、本堂は4階と、階数で納骨堂や参拝場所、食事をする会場とひとつの建物内ですべて管理されている近代的でイマドキなもの。
話は戻り、焼香スタートに滑り込みながら、一番後ろに座り、すでに座っている人達の観察から始めた。きっと、2列あるから、左側は友人や知人、右側は親族だなと予想した。が、のちのち、すべてが親族だと知り、圧倒される。和尚さんも家族葬では、過去最高人数だと驚いたくらいだ。叔父は九州は熊本出身で、なんと9人兄弟で、叔父は4番目。しかも、7人はまだ健在ときた。だから、夫婦で参列する兄弟もいるので、この大所帯。
そして、驚きはまだ続く。左の列の後ろに若者が3人並んで座っていて、一生懸命焼香のシミュレーションをしていた。左の列だから、叔父にお世話になった映画関係者なのかなと思いながら見ていたら、あ!エリちゃん!とリカ姉(叔父の長女)の子供達、つまり、私のハトコ達だと気がついた。ちなみに、リカ姉は6人子供達がいて、今回参列したのは上の3人。私が最後に会ったのは、みんなが小学生の時。みんな礼服だからなおさら、想像がつかなかった。エレベーターで移動する際に、一緒になり、ひゃ〜みんな元気?!と再会を一人喜んだ。誰なの?と実父から問われ、リカ姉のお子ですと答えたら、お葬式のスタッフかと思ったと。
お葬式は、棺の中に眠るいつもと変わらない穏やかな叔父の顔を見て、骨を見て、納骨して、毅然と振る舞う叔母とガイシ兄を見て、泣いた。
今回、羨ましかったのは、兄弟が多いっていいなということ。叔父の兄弟は、初対面なのに、みんな言い当てる事ができるくらい、ビックリするほど顔が似ていた。なんで、ようちゃんが先に逝っちゃうの。。。と弟を想う一番上のおねぇさんが、お葬式当日に出張から帰宅した息子さんから今から行こう!と口火を切ってくれたお蔭で、九州から、急遽飛行機に飛び乗って夕方にやってきた。
お葬式の中で叔母は、もうお父さんの餃子が食べられないのが寂しいと話していた。3人なのに、こんなに大量にいらないよと言っても、いつも大量に作ってしまいます。きっと、9人兄弟で育ったからでしょうとも話していた。急でみなさんいい年齢なのに、九州から駆けつけてくれる兄弟の関係の良さは、その話を聞く姿を含め、その場の空気感で、何も語らなくても、感じとることができた。
そして、ハトコ達。まぁ、家庭環境は複雑なため、三人が会うのも数年ぶり。え、特に連絡取り合う必要なくない?なんて言いながらも、今回参列した3人が誰かしらが全国へ移住した兄弟とつながっていることがわかった。今回も連絡取るのが遅いんだよっ!あの子はやんちゃだけど、筋は通す子だよ!とか、兄弟間の話は尽きなかった。そして、多兄弟だからか、弟1、弟2と名前では呼ばない長女エリちゃんが、サバサバとしきっていて笑えた。最後はみんな、今度は柴又に兄弟6人全員集合だね!と言って別れた。久しぶりにみんなに会った私は、年齢的には、アサコおばちゃんなのに、昔と同じ様にアサコねぇちゃんと呼んでくれて、みんな可愛いのぉと気分だけ多兄弟を味わった。
きっと今まで人生いろいろあっても、ずっと会っていなくても、環境が変わっても、両親が他界しても、兄弟を想い合う気持ちは、どこかしらにあるんだなぁと思ったお葬式だった。だから、多兄弟が羨ましく、かんちゃんが一人っ子なのがちょっと申し訳なく思った。
※こちらを書いたのが昨年のため、また、状況が変わっていたり。人生いろいろ、しみじみ。
41歳になりましたので、特に不妊治療はしていなかったのだけれど、もう体力的にも経済的にも無理だわぁと、二人目を諦めた。自分のキモチにも、すっぱりきっぱり整理をつけるために、今までの事情も知らない母上に突然、妊活してたけど、やめました!と宣言。そして、PTAもさっさと終わらせようじゃないか!と、立候補したわけで。。。
すると、5月のある日、かんちゃまんにアサコのおつぱいが大きくなっていると言われまして。元々、ぺちゃんこおつぱいなので、彼も気づきやすかったのか、あれ?そう言えば、月一きてないかも?となりまして。とりあえず、使えるのかね?と半信半疑で、8年前の妊娠検査薬の余りを引っ張り出してきまして、テストしてみた。
すると、なんと、陽性のラインが。8年前のだから、怪しいと思いながら、見てくれ!と馬さんへ。怪しい結果なのに、馬さんは涙目。かんちゃまんが一番喜ぶねと言いながら、まだ、本当かわからないし、流産の可能性もあるし、当分伏せておこうとなりやんした。おかげさまで、産婦人科で確定が出まして、でも、ここまで長い道のりだったので、体の変化はあるけれど、実はいまだに私自身実感は全くわかず。きっと、赤さんに会うまでこのままだと思う。
そうそう、PTAのみなさんには、ごめんなさい!妊娠してしまった!と伝えまして、嫌な顔をされるのを覚悟していたけれど、みんな、お母さんの集まりだから、すんなりと、おめでとう!無理は絶対しちゃだめ、私達に任せて大丈夫、できるとこれだけ入って!と心強いお言葉をくれた。PTAというだけで、強い圧力団体みたいなイメージがあったけれど、今回のメンバーは相性が良い、さばさば&優しい人達の集まりで、私はずっと笑いながら楽しみながら、8月末まで走り抜けることができた。
今回の妊娠、何がかんちゃまんの時と違うかというと、まぁ、つわりがひどい。食べられるだけありがたいかと思いながらも、安静を余儀なくされ、横になる日が続き、いつもに増して、ぐうたらの日々。馬さんには1月の出産後覚えていろ!とあまりのぐうたらさに、毎日脅されている。
流産の確率もそろそろ低いかなという頃に、かんちゃまんと一緒に産婦人科へ。空気感で感じてくれるだろうと思っていた私が甘かった。診察後も全く気づかず。。。診察後廊下で、かんちゃん、おにぃちゃんになるよ!アサコ、最近、朝、一緒に学校行けなくなったのも、赤ちゃんがお腹にいるからだよと伝えたところ、へ?って顔をされた。こりゃ、まずいぞと思いながらも、私は血液検査のため、別室へ。かんちゃまんは自動ドアでつながる待合室ロビーへ。自動ドアが開いたと同時に、やったーと言いながら、バンザイをするかんちゃまんの後ろ姿が見え、ドアが閉まった。その際に見た光景があまりにも強烈で、今でも笑えてくる。
小学校では、どこからか情報を入手した、かんちゃまんの一年生の担任と二年生の担任の先生、それぞれから、興奮気味に、あのかんちゃんがおにぃちゃんになるんですか!?と言われたのも、なんだか、笑えた。
いろいろな不安はもちろんだけれど、もう一人いたら、もっと楽しいことが増えるんじゃないかと思わせてくれた、かんちゃんと馬さんに素直にありがたいと思う。そして、早退や急なお休みを快く許してくれる会社にも感謝。
ちなみに性別は、まだわからないのだけれど、すでに名前は決まってしまった。あとは無事に健康に生まれてくれるのを祈るのみ。
みなさん、お元気ですか。私は、おかげさまで、他三匹含めみんな元気です。相変わらずの毎日で、でも、子どもがいると考えてしまうのが、子育てと自分のあり方。正解なんてないし、子どもは十人十色だし、隣の芝は青く見えすぎるし。
自分はどうだったかなと思うこともしばしば。でも、最近、あ、良かったなと思えることもあって、昔からの性格か、それとも、海外に数年いたからなのか、周りの意見にそんなに振り回されない自分がいること。
さまざまな国の一流監督が子ども達にスポーツを教える【奇跡のレッスン】を見ては、あー、海外はこういう考え方で子育てをするのかと、すんなり受け止められ、思いがけない考えだけに取り入れたくなる。これは子育てだけではなく、ビジネスにも共通する要素も含まれていて、自分も原点回帰できるいい番組。とりいれてみようかなとやってみて、合わなければやめればいいというのが私のスタンス。
海外の監督が共通して毎回言うのは、【ミスはするもの、失敗をしないと学ばない、考えない。】オトナはすぐ介入したがるが、それだと、自分で考えない。なにより、子ども達がお互いの声にかたむけることをそいではならない。
ミスの指摘は誰でもできること。早く考える癖をつけさせ、失敗しても何度もチャレンジさせる。ある子どもは、コーチから、そうじゃない、あっちに蹴るんだ!と言われ、次の同じ様なミスで、そうじゃない!まっすぐ蹴るんだ!とあれこれ言われ続け、彼は自分で考えることもやめ、自分から動くことをやめたんだと言っていた。
レッスンのメニューも慣れたら、すぐ変えるなど、考えるメニューでステップアップさせる。同じメニューでは飽きてしまうし、やはり考えることには、つながらない。
そして、失敗はあとで教えること。失敗する部分はみんな違う。何回かチャレンジしても、わからない場合は、立ち止まって、正解を“自分で見せて"、何が駄目だった?どう違う?どうしたらいいと思う?と、それぞれに考えさせること。人生トライアンドエラーの繰り返し。【自分で見つけた答えは一生忘れない】と言う。
オトナが大事にして欲しいのは、その子の強みを見つけること、隠れたいいところを褒めること。それが、自分に自信がつく近道だと言っていた。
あるお母さんが、学校とお家では態度が異なり、お家で注意を引くためなのか、騒いだり、嫌なことをしたり、どうすればいい?の問いに監督は、あっさりと、放置すればいいと言っていた。本人も続けて放置されたら、2、3回で諦める。でも、その代わり、本人が不機嫌じゃない時に褒めることを重要視して欲しいと。
もう一つ、外国だなと思ったのは、他の子より秀でている子は、どうしてもエゴが強くなり、自分だけで試合を進めようとしがち。でも、その時は決して出る杭は打たないで!と。その子には自分の才能を周りと喜び、わかちあうことを教え、協調性を学ぶ方へ導いて欲しい、作り上げて成功する喜びを知って欲しいと言っていた。
そして、自分が年齢を重ねるにつれて、覚えておこうと思った任天堂の社長、岩田さんの言葉。
コミニュケーションで、相手にうまく伝わらない時は、絶対人のせいにはしない。「この人が自分のメッセージに共感したり、理解してくれないのは、自分がベストな伝え方をしてないからだ。」と思うようにすると決めたんです。うまくいかない場合は、自分が変わらないといけない。この人に合ったやり方を探せば、理解や共感を得る方法は必ずある。いまでも、コミニュケーションがうまくいかなかったら、自分の側に原因を求めています。
久しぶりに書いたら、こんなに長く。これからも、のらりくらり頑張りまーす。
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