感情をコントロールができる人が称賛され、感情に余裕のある人ができる人だと言われる時代。それは年齢のせいだ、性格のせいだ、ホルモンのせいだ、あなた自身が悪い!といろいろ原因追求され、レッテルを貼られ、自分自身もきっとそうなんだろうなと疑うことなく、自分を追い込む癖がついていると最近、感じている。そして、そんなに弱かったかなとも。
そんな時に23歳のちゃんみなさんの発言に、あ、そうかもしれないと思わされた。
「感情が動かない。あまり感動しなくなってしまった。歳のせいにされる方が多いが歳のせいだと思っていなくて、コロナ禍のせいじゃないかなと思っていて。絶望が大きくても、ちょっとの希望があることで、何かを言いたくなる、発したくなる、あがきたくなる、幸せを感じる。そのちょっとの希望が年々塞がっている。音楽やテレビ含め、言っていいこと、やったら駄目なことなど、身の回りの規制があまりにも年々厳しくなってしまっている。そこが感情にリンクしているのかと思っている。」
かといって、自分ではどうにもならない、できないから、きっと、なんとなく気づかないフリをして過ごしてしまうか、思い詰めてしまうのかもしれない。
同じ番組内で、マツコさんが「幸福とは?」っていわれたら、「他者を介在させずに、喜びを得ること」そして、「他人と比較しないモノを持つことが幸せ」とも話していた。
これは確かに、簡単に情報のシェアができる世の中になったからこそ、昔よりも比較対象が増え、aiで自分が気になる情報が目に入りやすくなり、優劣がつきやすくなってしまった。だから、世界は広くなっているようで、人によってはより狭くなり塞ぎこむ一因になっているのかもしれない。
この半年、いや、産休をあけてから、家庭や仕事において、いろいろありすぎた。他人を通して、自分と向き合うことも多すぎた。正直、もう、ダメかもしれないと思った時もあった。でも、最後は馬さんに救われた。まだまだ未熟な自分に使ってくれた時間に感謝した。
私の父は「薄っぺらな人間は、底を見られると逃げるしかないんだわ。コツコツと苦労を積み重ねた人間が強いってこと。学ぶ力は、生きる力です。」と。
馬さんとは出会ってから、こんなに二人で話したことはあっただろうかいうくらい、毎日、夜中までずっとたくさん話した。そして、最後にこれをと、夜中に書き溜めたらしい手紙をくれた。
今回改めて感じたのは、私は人が好きで、曲がった事が嫌いで、人の言動から、きっとこういうことだ!という予想はとことんはずす事だ。
馬さんのおばあちゃんが亡くなった。おばあちゃんは、私と馬さんが付きあっていた時からのお付き合いだ。当時、馬さんの実家へ遊びに行くと、必ず、あさちゃん、ちょっとと、おばあちゃんから声がかかり、帰るまでおばあちゃんの部屋で過ごすことが多かった。特にこれといった話をするわけじゃないのだけれども、決まって、私が好きなお寿司を一緒に買いに行ったり、おばあちゃんの茶箪笥にしまってある高級なお茶菓子をこっそり出してくれた。そして、リビングとおばあちゃんの和室の境目には、おこぼれ待ちなのか、ただ単に頭を置くにはちょうど良い高さなのか、必ず犬のキャビアさんがいた。
おばあちゃんが外出する時は、足が悪いこともあって、手をつないでいたのだけれど、実母方の祖母と過ごした時間に似ていて、楽しかった。おばあちゃんがお引越しする際に不要になった家具とお皿5枚と灰皿をいただいた。お皿を使う度におばあちゃんのお皿と思いながら使うので、いつもよりお皿を大事に使える。
面白いもので、私の記憶は楽しかったある一定の時期から変わらずで、亡くなると、その光景から、その存在が抜けていく感じ。だから、今回はあの光景から、キャビアさんがいなくなり、おばあちゃんがいなくなった。
年齢を重ねることには抵抗はないけれど、別れが続くのは避けられなくて、楽しいことだけ考えよう、生きている間にみんなに会えたら、思いっきり笑って別れようと決めている。
久しぶりに津波の映像を見た。9歳のかんちゃんは、初めて見る光景だった。アサコの友達もここにいて、山(高台)に逃げて走ったんだよと話した。死んじゃったの?とその映像を見ながら、聞いてきたので、いや、生きてるよと言いながら、当時を思い出した。
東日本大震災の発生当時、官房長官を務めた枝野さん。震災当時、青色の作業ジャンパーで不眠不休の情報発信を続けた姿は、脳裏に焼きついている。
あれから10年目に合わせて出したコメントを読んで、やはり現場にとても近い人間だったんだとあらためて思った。
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−10年がたちハード面の復興は進んだが問題は山積している。
枝野氏 孤独死が増えている。コミュニティーが壊れてしまっている。大規模のかさ上げ工事をやった。だけど、その間に被災者がバラバラになって、帰って来る人が少なくなった。大規模のかさ上げ工事は否定しないが、スケジュール感を明確に示して、何年待てば、何ができるということが見えないまま、10年進んできたことで、出ていかなくてもいい人たちが出ていってしまう。出ていきたくない人が出ていかざるを得なくなってしまった。そして生業(なりわい)です。働く場所と業を起こすこと。政治行政がサポートすることができたら、と大変残念に思う。
−国は福島第1原発の放射性物質トリチウムを含んだ処理水を来夏にも海洋放出する方針を固めた。風評被害で死活問題となる地元漁業者は強く反対する。
枝野氏 安全と安心は違う。安全は専門的にいろんなことを言う人がいるけれど、そのことで多くの国民が安心するかどうか問われている。いくら専門的に安全だ安全だと叫んでも、そのこと自体は本質じゃない。処理水の問題は現状ではとても認められない。
−復興へ、今後の重要な課題を挙げると
枝野氏 危機管理庁を創設すべきです。内閣府の防災担当は頑張っているが、これだけ災害が相次ぐと、もっと人員を増やしてノウハウが蓄積されるようにしなくてはならない。実際に町長さんが津波で亡くなって、町役場がほぼ全滅というような所が出てきた。その時に、国が直接やらざるを得ないということが、たくさんあるのに、そういうチームがいまだにない。
◆枝野幸男(えだの・ゆきお)1964年(昭39)5月31日、宇都宮市生まれ。東北大卒。弁護士を経て93年、日本新党の公募で旧埼玉5区から初当選。当選9回。鳩山内閣で事業仕分けチームを統括。菅内閣で官房長官、野田内閣で経産相。家族は妻と2男。
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メモメモ
1.今、「何をやる」べきかの課題を見つけられる人(課題の発見)
2.仕事のテーマを見つけて、自発的に行動する人(課題を改善)
3.自分の間違いを認め、人の意見を吸収できる人(知恵集め)
4.私の間違った意見や見方を修正してくれる人(主張)
5.自分の仮説をデータで検証し、全国標準を書き換えられる人(実験)
「How to」より「What to」。何をすべきなのかが、わかる人が「できる人」です。
経営課題を発見でき、改善し、知恵を集められる。きちんと知恵を集めた結果、仮説を検証・実験し、標準化まで持っていけるか。自分だけの考えではなく、会社全体の考えとして体系的に標準化ができるかですね。
まず、課題を発見できることが一番重要なので、私もいろいろな社員に「今、何の問題がありますか?」と聞くようにしています。
問題発見できる人は、課題解決に進むからです。
課題を見つけるのは、意外と難しい。そもそも、改善意欲がないと発見しませんから。
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若い頃わたしが「自由だ」と思っていた多くの要素は「妥協の産物」であり、上からと下からと右からと左から迫りくる壁のなかで、なんとか活路を見出す「箱庭のもがき」のことでした。
仕事における「自由」とは、「できること」と「許されていること」と「会社や読者(顧客)に望まれていること」をすべてクリアしたわずかな手持ちピースの組み合わせに「やりたいこと」を織り交ぜて、なんとか「成果」というパズルを完成させることだったわけです。
「自分がやらなきゃ」、「自分でやったほうが早い」を積み重ねていくと、「誰もやってくれない」に行き着かざるをえなくなります。作業の責任とは、「それを(面倒くさくても)適切に割り振ること」まで含まれていると思ったほうがいいようです。
誰にも割り振れずに自分でやり続けるかぎり、仕事は(作業者の器以上には)まったくスケールしないし、そもそも管理職を置く意味がなくなります。
仕事全体の成長が止まるだけでなく、管理者は自分だけで仕事を回している気になって心も体も削れていき、周囲も仕事の最適化について考えなくなります。わたしはなりました。すまん。
釣った魚を分け与えるだけでなく、釣り竿を渡して釣り方を伝えることまでが仕事なのですよね。
もっとはっきり書けば、管理職は管理に専念したほうがいいし、作業員は作業に専念したほうがいい。「仕事を分けて、環境を整備する」ことこそが「管理」の第一歩だったりするわけです。
アリストテレスは、「優秀さとは、単発的な行動ではなく習慣のことである」と言ったそうです。毎日なにを積み上げていけるか、そのために何を準備すればよいか。
どちらも共通して書いてあったこと。
ほめて伸ばすのが教育の基本です。とにかく、苦手意識を持たせないこと。
子育てみたいだ。。。
最近、実家の母を想うことが多い。
今まで自分の人生は、人とずっと比較されてきた気がしていて、どうせ自分なんてと思うことでやり過ごした感がとても強かった。が、最近、馬さんと人生を振り返るきっかけがあり、そこで気づいたのは、シンプルに、自分は両親からとても大切に育てられたことだった。いい年になって大人気ないけれど、私の人生、結構つらい時があったと訴えたことがあって、母はそれをとても気にしてお手紙にごめんなさいと書いて送ってきた。でも、両親の想いに気づいた今、母を責めてしまったことと、暴言を吐いて甘えている自分を悔やんでいる。(甘えられるうちは甘えとけ精神でもあるが)
そして、今の自分は自分が築いてきたと自負してきたのに、気づくと好きなモノや物事の考え方(価値観)が母にとても似ていて、いつのまにか、母の背中を追いかけているのだと気づいた。
だから、今は本当にありがとうという感謝のキモチしかなくて、こんな想いにふけてしまうところがなんだか不吉だと、内心ドキドキしている。
かんちゃまんの担任の先生は28歳で、やる気に満ち溢れている。見た目は大学生みたいにも見える。コロナの影響で、2学期になって初めて行ったクラス別の保護者会は、穏やかなものではなく、それでは指名しますねとクイズ形式なうえに、最後は保護者の方で話し合ってみましょう!くらいのアグレッシブなものだった。はい、よくうなずくマツダさん!とあてられたのに、全く思い浮かびませんと答える残念な母。
しかし、この感じ、なにかに似ていると思っていたら、営業の新人さんに似ていると、昔の自分を思い出した。パワーをすべての対象に使うこと。学校で当てはめるならば、子どもしかり、保護者にも全力でぶつかる。とりあえず、なんでもやってみるしかない!という根性。信じていれば救われる精神。
かんちゃんまんは、人よりも成長が遅れているので、1年生の頃から学校には、息子がクラスの進行の妨げになるような迷惑をかけない限り、端っこでも良いので、おいてくださいと伝えている。だから、面談ではいつも頭を下げることが多くて、面談後には、あぁ、今回もまだ学校にいられるとホッと胸をなでおろしていることが多かった。
が、やはり、この担任の先生、若いからなのか、かんちゃまんのためにも全力投球。言葉の組み立て方が特に弱い彼のために、どうやったら、文章がうまくかけるようになるのかずっと考えて、昨日、答えが出たんです!聞いてくれますかっ!?と、前のめり気味に言われ、は、はいと、この私が引くくらいの勢いだった。だが、このキモチを無駄にしてはいけないなと感じていたり。営業ならば数字に出てきたり、相手が少しでも変わったのがわかると、達成感があるのと同じで、先生のためにも学年が終わるときには、信じてやって良かったと、何か1つでも変化を感じてもらえるよう、かんちゃまんと成長しようと、母は変な使命感にかられている。
が、最近の彼は絶賛反抗期。フォートナイトとにゃんこ大戦争ばかりしている。しかも、意外にうまいので一概にやめなさいとは言えない。が、ドヤ顔が憎たらしい。可愛いのは寝顔の時だけと、以前知り合いが言っていたけど、それが今でR。
急な連絡ですみません。
実はヤスが亡くなりました。
とフェイスブックから、大学の後輩が連絡をくれた。あのヤスが?と、信じられなかった。もう20年近く会っていないのに、大学のみんなで駆けつけなければという気持ちで、葬儀は?と聞いたところ、次の様なメッセージが届いた。
6/18夜に自宅で倒れそのまま、25日に発見です。解剖の結果、死因は心臓梗塞ではないかと。腐敗が進んでたので葬儀はなく、昨日コウタと2人で火葬に立ち会いました。
柴又の叔父の時同様、自宅で亡くなったので検死して、すぐ火葬だったのだと容易に想像ができた。
私の大学は田舎の大学で、そもそも留学生が少なく、日本人も私の学年の1つ上の先輩と下の後輩だけだった。だから、必然とみんな仲が良かったし、青春も謳歌した。田舎過ぎたから、2年くらいでそれぞれやりたい事を見つけて、ハワイやNYへ転学したりもした。その後、社会人になっても、どこかしらのメンバーがつながっていて、一声かけると、集まるくらいの結束力があった。
だから、今回も他のみんなに連絡してあげてくださいと真夜中にメッセージを送ってきた。
この年齢で、同じ年代の訃報を聞くなんて、思ってもみなかった。もう、会えないんだ。ただ、それしか、今は考えられない。
写真はみんなの思い出が詰まったディートリック(学生寮)。
なかなか高いお皿は買えないのだけれど、これまた、食器好きの母上の元で育てられたため、お皿への思い入れは結構強い。
小さい頃、白いハートの大皿はパーティーに使う皿、和食器の大皿はお寿司をのせる皿、煮物を入れるための古食器の深い皿、取り分ける小皿はこのお皿などと思い出とともに、記憶に刻まれている。
夏休みに父方の実家へ行き、親戚みんなで使ったガラスのコップやお箸、小皿も覚えている。そして、祖父母のお家で楽しかったのが物置小屋に眠っている古食器や古道具など、いわゆる、骨董品を探すのも好きだった。
洋食器は高くて買えないけれど、小さい頃からデパートで眺めることに付き合わされていたので、当時の高級食器のブランド名は嫌でも覚えていて、当時の川徳(盛岡で唯一のデパート)の食器売り場の配置も思い出せる。
よくインスタ用に料理の写真を撮る人が多いけれど、私はこの料理にはこのお皿は映えるなぁ、美味しく見えるなぁと写真を撮らせてもらう場合が多い。
そんなこんなで、私もお皿は好きで眺めるだけでも、幸せな気持ちになる。が、よく割る。ガチャンガチャンと大雑把に扱うため、かけた食器を見ては、自分の性格を悔やむ。
そのため、日常よく使うコップはIKEAなどでまとめ買い。割れてもショック度はそこまで大きくない。しかしながら、子を持つ親になった今、丁寧に扱いなさい!大切にしなさい!と、自分にも半分言い聞かせながらの注意になってしまった。
もし、宝くじが当たったら、食器を買い漁りたい。でも、小さい家だから、食器を入れる棚がない。でも、夢を見るのはプライスレスでR。
写真は、やはり欠けてしまったお気に入りのフランス食器。海外では前菜に使うのかななんて妄想しながら、使っていた。
たまたま出産の入院中に見ていた徹子の部屋。日本に帰化したスウェーデン人の庭師のヤコブさん(村雨辰剛さん)。彼は師弟制度に憧れ日本で庭師に。スウェーデンでは、昔は師弟制度があったけれど、今は専門学校で学ぶ事が多いのだとか。
印象的だったのは、今の日本は叱らず、褒める育て方を推奨しているが、その彼からすると、その育て方をされた人達は、大人になっても、褒められることを求める人が多いと感じているそうだ。裏を返すと、それは自分の成長も人任せに見えるとのこと。これは確かにと、仕事でお付き合いのある役員さんと以前話していたことに結びついて、納得がいった。今の若い人は。。。なんて自分が言う日がきたのもなんだか残念でえらそうなのだけれど、私は年齢関係なく真っ向からぶつかっていくタイプなので、参考になる話だった。
また、専門学校やSNSで情報を見る得るといった受け手に偏った学び方だと、本当に必要な知識や成長は取得できないとも言っていた。どんな時もアグレッシブ(積極的)にと。師弟制度に憧れ庭師を目指したヤコブさんは、師匠から直接教えてもらったことがなく、師匠や兄弟子の動きを見て覚えろと言われ、諦めずに食らいついたそうだ。そして、師匠について学んだ5年間一度も褒められなかったけれど、得るものはとても大きかったと語っていた。
アメリカにいた頃、名もない田舎の大学をみんなから数年遅れて卒業した出来損ないの私は、就職も厳しいだろうと悩んでいた時期がある。その頃にたまたま出会ったアメリカの会社経営者に、その話をしたところ、大学の名前や学んできた事よりも、社会に出てからの方が大事だよ、20代をいかにがむしゃらに過ごして積み上げるかで違うよと言われ、背中を押してもらった。だから、最初に就職した会社やメンバーには、たくさんの迷惑をかけ、たくさん学んで、喜怒哀楽に満ちた時間で刺激的だった。その分、自分の成長も感じられた。
て、褒められたいのはきっと、年齢問わず、求めたり嬉しいことで、何を隠そうこの私は褒められると、調子に乗りまくるタイプなので、環境や状況によって使い分けるのが良いのではと、個人的には思っていたり。
今年の目標は、まだ掲げていないけれど、かんちゃまんにもよく言っている、なんでも丁寧に、諦めない、人のせいにはしないあたりが、私も必要な気がしている。
写真は、お土産をどっさり持って自宅にやってきてくれた父上。ちなみにかんちゃまんの呼び方変遷は、以下の通り。盛岡じぃじ→盛岡→よういちさん(今ここ)
]]>数字はどのシーンにおいても、結構大事で、物事を明確にしてくれる。USJをV字回復に導いたと言われている森岡毅さんの講演会でも、数字によるデータ分析(マーケティング)を目の当たりにして、ご自身のダイエットにおいても、運動、食事等の因子と、体重という結果の間にある関数を解明しており、あー、数字って恐ろしいと個人的に思っていた。
そして、近くにいる馬さんも実は、数字に強くて、昔からやっている競馬の影響からなのか、何でも数字を記録して分析したがる。ネットで海外の論文まで見に行ける便利な時代になったからなおさら、エビデンスは楽しいねと、自分のトレーニングやら、かんちゃまんの記録やら、家計のやりくり(私がやったら家庭崩壊する)など、これがこうなるということはこういうことなんだよと説明してくれる。が、理系だったとは思えないくらい数字アレルギーの私は、大体そんな時はふむふむと言いながら上の空。
しかし、そんな私でも今回は、まさかの出産で、その数字の恐ろしさを目の当たりすることになる。
というのも、今回も私の意志で一人で出産に望んだのだけれど、いわささんは最初から分娩室で処置から出産まで終えるので、一人になる時間は少なく、ずっと助産師さんがそばにいてくださった。だから、前回はあえて聞くこともなかった機械や点滴などの話もしなかった。が、ここで裏目に出たのが私のわからないことはすぐ聞く「I have a question!」精神。あの機械のあの数字は何ですか、点滴のあれは何ですかと、まだ陣痛が進む前に、すべて聞いてしまったのでR。
今まで知らなかったからやりすごしていたのに、知ってしまったから、今の自分の状態、陣痛の感覚、点滴の内容や速度を、数値で見事に把握することに。陣痛でも、絶対こっちの方向が楽なのにと思う方にその機械や点滴があるから、嫌でも目に入ってきて、かなり後悔をした。結局楽な方向はその数値が気になり過ぎて諦め、逆方向で耐えることに。
そして、最後に陣痛MAX、出産という時に助産師さんに、あ、すみません、今、そちらに行けないので、反対側のナースコールボタン押してください!と言われ、あの数値達の方向を向き、力いっぱいナースコールを押すという猛烈な一撃をくらった。といっても、その時は数値なんてぶっ飛ぶくらいの痛みで、もういきまないでなんて、むりーの極地だったわけだけれども。
しかし、数値を改めて嫌いになり、自分の知りたがり精神も裏目に出るとこうなるのかと学習した出産でありやんした。
写真は入院中、かなりお世話になった充電式の湯たんぽと、ちく○が切れた時にすぐ治った羊さんの毛の油(ラノリン100%)、ランシノー。
1月6日15時10分に2808gの次男を無事出産。翌日に会いに来たお兄ちゃんは弟を見て、優しく触り、うわー、特別なぷにぷにだーと喜んでおり、翌日の登校初日で冬休みの出来事で弟が生まれましたと発表したそう。
さて、今回の出産ですが、やはり8年前と何も変わらず、朝8時にタクシーで、じゃ、行ってきます!とリュック一つを背負って家を出発。その後、すぐに着替えて朝9時に子宮口を開くため、あの魔の風船を挿入。が、経産婦だから、あの痛みはなく、あら?首の手術の方が痛かったなぁと拍子抜け。その後、分娩室へ。
昔から注射や採血の度に、血管が見つかりづらいと言われており、今回も一回目失敗。最終的に10時に利き手の太い血管で、促進剤の点滴スタート。お腹の張りが始まり、陣痛って何だっけ?と余裕をこいて、周りの器具の話(魔の数字参照あれ)や産婦人科の話などしていたら、きた、陣痛が。あの下腹部を襲う激痛が。。。
気を紛らわすために、なにか、なにかないかと思っていたら、赤ちゃんの心音が、いろいろな音に聞こえてきた。まずは、とんぶりの寝言のバフッ音。ずっと、バフバフバフバフに聞こえてきて、とんぶりーとなり、次はかんちゃまんの声で、わっしょいわっしょいわっしょいからの、よっこいしょよっこいしょと、私が妊娠後期に彼が私によく声をかけてくれた掛け声に聞こえてきた。しかも、最後の心音はとどめかの様に、ろかろかろかろかの響き。まだ、生まれてないのに次男の名前が聞こえてきたーと、一人分娩なのに、心音から応援隊が。
12時の時点で、風船がはずれていないか、子宮口の開きを見てくれたのだが、進んでないなぁとの助産師さんの一言に、経産婦だから、私の今日の気持ちは、もって17時までですよ、それまでしか、気力持ちませんと内心思っていた。しかも、空腹感が追い打ちをかけ、あー、長期戦かぁとモチベーションダウン。
そして、午後2時、助産師さんが尿を管で出してくださった後、状況が一変。膀胱のふくらみが減ったので、赤ちゃんが一気に下がってきて、陣痛の感覚も短くなったのでR。助産師さんも、え、こんなに早いの?!となり、風船とれーの、破水しーので、院長に分娩始まりそうですと連絡をいれてくれた。私も長期戦かと思っていたので、分娩に向けての心持ちが準備できておらず、かんちゃまんの時と異なり、呼吸とパワーのペース配分がごちゃごちゃに。案の定、過呼吸になり、母、手足のしびれがすごく、酸素マスクをつけられる。あ、もう、いきみたいという私に、まだまだまだ!と助産師さんにストップをかけられ、今、そちらに行けないから、ヘルプを呼ぶため、ナースコールを押して!と言われる。キモチ飛びそうになりながら、ナースコールのボタンを押す。全員揃ったところで、分娩開始。ワンプッシュ目、なんだか、中途半端ないきみ方を感じながら、あとワンプッシュでいくよ!と言われ、あと一回でいけるのかと気合いを入れて押し出す。血液が飛ぶ感覚があったものの、息子の泣き声が聞こえ、顔が見えたので、一気に気が抜けた。
なぜプッシュ2回だけでだったのかは、赤ちゃんがへその緒の絡まりがあり、長く産道に置いておけないという判断で、早めに会陰切開をしてくださった。胎盤はすぐ出たのだけれど、私自身の子宮も破れて?しまったみたいで、術後は中と外を縫合。また、出血もあったので、出産後、2時間は手術と点滴で分娩室に。点滴時(16時)に、15時のおやつまだあるみたいだけれど、食べれないよね?と聞かれ、欲が勝ち即答で食べます!と、生まれたばかりの次男を見ながら、幸せだなぁとおやつをすべて食す。
生まれたばかりのろかさんは、私の顔に似てるような、いや、私の祖母(母方)に似ている!という印象。
今回、よく助産師や看護師のみなさんに聞かれたのは、ご主人が立ち会えなくて、残念でしたねぇと。いや、長男の時もそうですが、私の希望なんですと言うと、あれ、触れちゃいけない?みたいな空気が流れ、いや、人がいると私が気持ち的に甘えるのと、気を使いたくないんですと言って、あー、そうなんですね、今どき珍しいと言われた。今はどなたかが立ち会う方がほとんどだそうで、反対に私が驚いたほど。でも、今回は助産師さんがずっと近くにいてくださったので、やはり、前回よりも痛いとか、もう、我慢できないかもと甘えが出ていた気がして、私は昔から自ら過酷な?厳しい?環境に身を置かないとダメな人間なんだなと改めて感じた。
さて、出産してから現在、3週間近くの息子さんは、ありがたいことに、お布団で一人で寝まして、3時間ごとにきっかり起きる。あと泣くのはオムツが気持ち悪いときだけ。今のところ、乳腺炎にはならず、第一子の時よりも体の回復が早く、外出も苦にはならず。かんちゃまんもせっせと弟くんのお手伝い?いや、母にこき使われ?助かっている。
今回の出産ももれなく、馬さんが産院の候補を上げてくれまして、一般家庭だし、貧乏性の私はいいよ、お金のかからないその辺のところでは決まらず、ちょっと贅沢な産院で次男を産んだわけで。今回は交通の便と、雰囲気と、高齢ということもあり、お医者さんの安心できるところで、ということで、いわささんで。
のちのちわかったのだけれど、かんちゃまんの学校でも、婦人科や産院良かったよ!の候補であがってきたのが、いわささん。
ベルンの森と比較すると、いわささんは院長さんが中心なので、流れ作業感がなく、患者さんそれぞれをしっかり診てくれる感じ。キモチの安心度を記号で表すと、ベルンの森は、医師≪助産師さん。いわささんは、院長さん≧助産師さん。いわささんの助産師さんや看護師さんの皆さんも、よく声をかけてくださり、ちょっとした雑談を楽しんで良い気分転換に。
お部屋もちょうどいいサイズの個室で、お土産も後日すぐ使えそうな実用的なモノばかりでありがたかった。写真を動画にして、1ヶ月検診で渡してくださるDVDのプレゼントもあり。
食事はベルンの森と変わらない、毎回フルコース的な料理。食べることが大好きな私は、実は陣痛中から、いつのタイミングから食べられるかなぁと、逆算していた。今回はお正月明けということもあり、七草粥やおやつにおしるこ(かんちゃまんがちょうどやってきて、お餅だけたいらげていった)なんてものも。もちろん、どれも美味しくて、毎回ありがとうございますと完食。
ありがたかったのは、出産後にビシバシやらないシステム。初産と異なり、いや、高齢だから?回復度と気力が低下しているため、ずっと同室で頑張れるか、ドキドキしていた。が、8時以降は希望を出したら、預かってくれる。また、完全母乳を推してはいないので、お母さんの希望に合わせて柔軟に対応してくれる。
朝も院長さんが自ら回診して、声をかけてくださり、極力プライベートを大事にしてくださってる感があり、これから戦い?のお母さんにはありがたい配慮。
Wi-Fiスポットはないので、家族や知人と赤ちゃんの写真や動画のやりとりをされる方、入院中にAmazonPrimeを見る方は、個人のポケットWi-Fiを持っていくか、産院からiPadをお借りすると良いかも。
また、料金は最近、改定(2020/1/14時点)をされたようですが、こちらは経産婦さんの割引料金を差し引いた額が掲載されているようなので、初産の方はお気をつけ。私は精算時に予想外の出費に、ひゃーとなった一般家庭なので。定期検診費用などは、電話や受付で問い合わせをすると、事務の方が丁寧にも教えてくれた。
そして、前回の産院と違って戸惑ったのは、計画分娩だからだと思うのだけれど、入院した初日はすぐ分娩室へ直行。そこで促進剤スタートからの出産。前回は最初、入院する個室からだったので、持ち込みたい携帯や飲み物は事前に準備していた。今回は陣痛中に二人分の富士山を書こうと思って赤ペンを用意していたけれど、用意する間もなく、処置が始まり、あれよあれよという間に出産。携帯も近くになかったので、処置完了二時間後に写真を撮りたいですと申し出て撮影。もし、私同様、お一人様で出産に望む方は最初に必要な物を近くに置いておく準備をおすすめしまうす。
あの切開を乗り越え翌日の再診。また、別の先生の診察。見た瞬間に、あ、こりゃ、もう一回、麻酔と切開だわとのお言葉が。。。ワタシ、心の中で、ウソだー、ウソだと言ってくれーと叫ぶ。やっと声に出たのは、あの痛い麻酔注射をまたやるんですね。。。のボヤキ。すると、ここ数日、連日通い続けているだけに、私のキモチをくみ取ってくれたのか、少し麻酔注射が痛くないようにしてあげるからねと、日曜日の診察は一人のお医者さんで回していて、2時間待ちで混み混みなのに、氷でゆっくり冷やしてくれた。
あのベテランの看護師さんも安定の優しさでお腹をなでてくれ、赤ちゃん大事だからね、ここの看護師さんはみんなママだからね、キモチよくわかるよと言ってくれた。ママにとっては、今年のPTAに始まり、ママのサポートは本当に心強い。さすが、声がけのマスターと思いながら、お隣りから聞こえてくる声がけも、つい聞き耳をたててしまうくらい、子供からクセ者?まで、まぁ、見事な声がけ。しかも、今日の先生は、それ、患者さんが一番欲しい言葉!と思う「僕が責任もって最後まで診ますから、大丈夫ですよ。」なんて宣言している。心強い言葉だけど、自信がなければ言えない言葉だなと思っていたり。
そして、私の麻酔と切開の番。お腹の子はなぜか、かぁさんの緊張を察したのか、まぁ、激しくお腹を蹴りまくっていた。元気で良かったと思いながらも、母は緊張マックス。麻酔注射は冷やしてくれたお陰で、昨日より痛くなかったのに、切開してからの、残りの粉瘤の取り除きがまぁ、痛い。今日診てくれた先生は、場所が首だからね、医師によっては、切除を思いきれないのよと本音がポロリ。ニオイがまだするて事は、まだ、どこかに残ってるって事なのねと、ドクターXを見てるみたいな解説を看護師さんにもしながら、小さい皮膚科なのになかなかの時間を私の切開に要してくれた。あ、やっぱり、ここだ、ひとつじゃなかったんだ、結構深く癒着してるなと言いながら、僕は今までこんな切開ばかりしてたからねと、しっかり残ってないか確認してくれ、ここは麻酔が届かない場所だから、痛いよね、でも、あと少しだから、頑張れぇと励ましてくれながら、終了。私のすごい手汗と少しの涙と肩凝りが、今回の痛みを物語っていた。
お母さん、頑張りましたね!と、先生も体をなでてくれ、数人の看護師さんもお疲れ様でしたと、ゆっくり休んで自分のペースで起き上がってくださいと最上級の優しさで接してくれた。一人の看護師さんは、私があまりにも深呼吸を繰り返していたので、過呼吸ではなかったけれど、念のため、血圧も測ってくれた。
明日も再診なのだけれど、終息に向かうことを願いながら、また明日も一日、病院と冬休み前の小学校保護者会で一日潰れるという、産休だけど、忙しい毎日になってしまった残念な師走。
アフガニスタンの銃撃で亡くなった中村さん、そして、余命3年のガン宣告をされたカメラマンの幡野さんの言葉には、なんだか共通することがあるなと感じている。
境遇は違えど、お二人とも素直に現実を受け入れ、その中には強い意志もあるのだけれど、自分の考えを人に押しつけることなく、こんな混沌とした世の中なのに、物事を実にシンプルに考えられている。
だから、情報整理が苦手な私には、お二人の言葉がすうっと入ってくる。いくつか、自分のメモ用に転記。
■中村哲博士
「敵を作ろうとはしていませんでした...最善の方法は、みんなと仲良くすることです...なぜなら、人々は私がそこに頼ることができる唯一のものであり、それは銃を運ぶよりも驚くほど効果的だからです」
「これからの時代、どんな人を育てていくべきか。誰か泣いている人がいたら、『どうして泣いているの?』と駆け寄ることができる気立ての良い子どもが増えてほしい」
「誰かに裏切られたと思っても、すべてを憎まないことが大切。その部分だけではなく、良い面もあると信じて、クヨクヨしないということが何よりも大切」
「ちょっと悪いことをした人がいても、それを罰しては駄目。それを見逃して、信じる。罰する以外の解決方法があると考え抜いて、諦めないことが大切。決めつけない『素直な心』を持とう」
「無理やりやってもダメ。悲壮感は十分な原動力にはならない。好きなことや、やめられないようなことを思い切ってやってほしい」
■幡野広志さん
子どもの記憶だって、日々たのしいことで上書きされていく。子どもだから忘れるわけではなく、それだけ人生が充実している証拠だ。
いまを生きていないおじさんほど、むかし悪かった自慢をしたり、過去の栄光という本人しかのめない酒でベロベロに酔いしれるものだ。
思い出は怖いことや不安なことよりも、たのしいことや優しいことのほうがやっぱりいいだろうとぼくはおもう。記憶が子どもの心を支えになり、守ることにもなる。